水瀬家で夕食をご馳走になった後、相沢一家は引越し先のマンションに帰ることになった。
 舞と佐祐理が二人暮しを始めたアパートからかなり近く、水瀬家や学校も、歩いて行けないほど離れてはない。
 駅までは少々距離があるが、商店街が近いので買い物には苦労をしそうにない。

 子供達二人が学生生活を謳歌するには充分な場所に、それはあった。






 そして次の日。
 祐無は名雪の声ではない、初めて使うまともな目覚ましの音で目を覚ました。
 彼女の荷物はまだ水瀬家の部屋に残されたままだが、屋敷の方に置きっぱなしにしてあった彼女の私物は運ばれてきていたので、それなりに物は揃っている。
 どういうわけか見覚えのない化粧台まで部屋に鎮座しているのは、きっと祐子の差し金なのだろう。
 これはつまり、女として世間に出るようになるからには身だしなみにも気を遣うようにしろという、母からの意思表示だ。
 どうやら、今度の週末に祐無が祐子の遊び道具になることは確定してしまっているらしい。
 楽しみなような恥ずかしいような温かな感覚に襲われつつ、祐無はとりあえず寝たままだった上体を起こすことにした。
 そしていつものように肩パッドを探してキョロキョロと辺りを見回してから、ふと思う。

「あ、もう祐一の振りをする必要はないんだったっけぇ……?」

 よくよく考えてみれば、自分が今着ているパジャマも、以前から使っている女物のものだ。
 彼女は今日から『相沢祐無』として、高校の三年生に転入することになっている。
 実際に『今日から』学校に通うのは祐一の方なのだが、公的には、祐一は三ヶ月前から既にその高校の生徒だ。
 書類上は祐一は在校したままで、祐無が転入するというかたちでなくてはならないので、少々複雑な話になっていた。

「お父さんったら、急な話の割には用意がいいんだから……」

 ベッドから立ち上がり、制服に着替えるためにクローゼットを開くと、そこにはちゃんと女子用の制服が収められていた。
 スカートの丈が異常に短い赤のワンピースに、白いケープと学年色のリボン。
 可愛らしいデザインなのだが、これを着るのは少し恥ずかしい。
 前開きのボタン止めなのに、スカート丈の先にボタンがないというのは問題だと思う。
 これでは、真正面にスリットが入っているのと同じだ。
 絶対に、この制服のデザイナーは男性だと思う。
 でも着てみた。

「あ、脚が扇情的過ぎる……」

 何故か、少しだけ悲しかった。




 家族四人で揃って朝食を食べた後、祐無は祐一と一緒に外に出た。
 無論、高校に通うためだ。
 学校までの道を祐一に教えなければいけないと思っていた祐無だったが、祐無によって思い出させられた祐一の記憶は七年の歳月を感じさせないほどに鮮明で、わざわざ祐無が案内しなくても、祐一は祐無の「舞と遊んだ麦畑」という説明だけで、完全に学校の位置を把握していた。
 道中、名雪が同伴でないためにゆっくりと歩いて行けるという事実に喜びつつ、祐無は祐一の記憶の鮮明さに舌を巻きながら、この街の地理について祐一と話しながら歩いた。

「あら、相沢君? どうしたの、こんな時間に歩いて?」
「あ、ほんとに祐一さんです。おはようございます」
「?」
「……おはよう」

 高校の校門前で、二人は美坂姉妹に見つかった。
 しかし挨拶をされても祐一には二人のことがわからないので、祐無が一歩、祐一の前に立ちはだかるようにして前に出た。

「えぅ〜、祐一さん、その女の人はいったい誰なんですか」
「まさか……祐無?」

 香里は祐無の女性としての姿を見たことはなかったが、二人の顔のつくりはまったくと言っていいほどに同じだ。
 彼女の知る『相沢祐一』の顔で高校指定の女子制服を着ているのだから、それが祐無なのではとすぐに思い至った。
 そうして怪訝な表情をしている香里ににっこりと微笑ってから、祐無は栞に向き直って自己紹介をした。
 ……まずは、第一歩。

「うん。私は祐一の双子の姉の、相沢祐無です。よろしくね?」
「あ、ハイっ! よろしくお願いします、お義姉さんっ!」
「ってことは、後ろに居るのが本物の……?」

 祐無の後ろで事の成り行きを見定めている祐一を指差して、香里は恐る恐るといった感じで祐無に訊いた。
 祐無は一歩退きつつ、祐一の背中を押して前に出させることでそれに応え、祐一に自己紹介を促した。

「おう。正真正銘の『相沢祐一』だぞ。そう言う二人は、美坂香里と美坂栞か?」
「ええ、そうよ。詳しいことは後で聞くとして、ひとまずよろしくね、相沢君。あたしのことは香里でいいわ」
「だったら、俺も祐一でいい。よろしく、香里」
「遠慮しておくわ、相沢君。……それにしても、祐無ってすごいのね。初めてあたしたちが会ったときにも、今とまったく同じやり取りをしなかった?」
「うん、私もびっくりしてる……」

 香里は祐無が祐一のフリをしている、ということを知識としては知っていたが、まさかここまで本人と似通った行動ができていたとは思わなかった。
 祐無が扮する祐一が破天荒な性格をしていることを、香里は物真似の仕方が極端だからなのだと思っていた。
 しかし実際は、本物の祐一本人がそれとまったく同じように破天荒だからだっのだ。
 それを寸分違わずに真似てみせた祐無を、香里は心底すごいと思った。

「むぅ〜、なんだか置き去りにされてるみたいで気に入らないですっ。どうしてお姉ちゃんはお義姉さんと親しげなんですかっ、なんで今さら祐一さんと自己紹介をしてるんですかっ」

 しかし、栞は祐無のことを知らない。
 自分の知っている『祐一さん』が目の前に居る少年だということも、自分と祐無が初対面だということも、疑ってすらいない。

「香里……悪いけど、後ででもいいから、栞に本当のことを説明しといてもらえるかな……?」
「わかったわ。それじゃ、あたしたちはクラス分けを見てくるから、またね」
「うん、ありがと。またね」
「よし。それじゃ、俺たちは職員室に行くから。またな、二人とも」
「はい、またです。祐一さん、祐無さん」

 新学年のクラス分けは、体育館の壁に張り出されている。
 なので当然、香里と栞だけでなく、祐一もそちらに向かうのが普通なのだが、祐無を職員室まで案内してくるのだろうと、栞たちは特に気に留めなかった。
 そうでなくても、今回の二人は転校の仕方が特殊なので、二人ともが職員室に出向くことになっている。
 二人の関係については前日に父の零治から説明がされているので、学校側も二人に気を遣うように言われており、転校生紹介の仕方まで決められている。
 それは零治の親心と、相沢の資本力の賜物だった。

「……気を引き締めないとな」
「うん」




 始業式が始まる前に、祐一と祐無はまず、校長先生に挨拶をすることにした。
 祐一は零治がこの学校に出した要求の内容を知っているので、どうしても先にお礼を言いたかったのだ。
 そんなわけで、二人は今、校長室にやってきていた。
 来客用のソファを勧められ、上等なお茶まで出してもらっており、およそ生徒らしくない待遇を受けている。

「この度は私達の無理な要求を呑んでいただいて、真に有難う御座いました」
「いえ、お気になさらないで下さい。貴方達の事情を知らされた者として、当然のことをさせて頂いたまでのことです」

 祐一と校長が交わした挨拶もまた、およそ生徒と校長らしくないものだった。
 流石と言うべきか、こういった場での祐一の態度は完璧だ。
 普段の子供っぽい素顔しかしらない祐無は、弟の豹変振りに目を白黒させている。

「ですが、私はこれから始業式に顔を出さなければいけないのでね。後のことは担任の石橋君に任せて、私はこれで失礼させてもらいますよ」
「はい。お忙しいところお邪魔してしまって、申し訳ありませんでした」

 部屋を出て行く校長を、祐一は席を立ち、深くお辞儀をして見送った。
 入れ替わるようにして入ってきた恰幅のいい中年男性にも、同じように頭を下げる。

「よろしくお願いします」
「あ、いや、そんなにかしこまらないでくれ。今日からはただの担任と生徒なんだ、それに見合った態度でいこうじゃないか」
「……ありがとうございます」

 祐一はこの男性とは初対面だが、祐無は何度も面識があった。
 昨年度、つまり二年の間も祐無の担任だった、石橋という名の中年教師だ。
 淡白だが気前が良く、無精者でホームルームや授業も楽なので、生徒からの評判はそれなりに良い。

「今年も、石橋先生が担任なんですか?」
「ああ、そういうことになった。なんでも校長は、君たちのお父さんに随分と面白い要求を出されたみたいでな。
 担任の私をはじめ、各教科の先生も、できる限り君と面識のある教師がすることになった。今年のクラスメイトも、馴染みやすいように去年とあまり変更がないようにされている。
 それでも、相沢との接点が少なかった者の何人かは、他のクラスの素行の良い生徒と入れ替わることになったんだが」
「はぁ……。お父さんったら、そんなことしてたんですか。でも、昨日の今日の話ですよね?」
「うむ。だから昨日は大変だったよ、この学校の教師全員が呼び出されて、三年のクラスやらなにやらを決めなおしだ。まあ、それでもその苦労とは比べ物にならないほどのボーナスを貰ったがね」

 そう言って、彼は大きな声でガッハッハと笑い出した。
 祐無の記憶では決してそんなことをするような御仁ではなかったのだが、どうやら寝不足と多額の礼金が相まって、テンションが異様に高くなっているらしい。

(ねぇ祐一、お父さんが出したお金って、だいたいいくらくらいなの?)
(学校には一億ほどらしい。それとは別に、昨日出勤してくれた教師には月給の三倍くらいを渡したとか)
(そんなお金、いったいどこから?)
(父さんの個人口座)
(あきれた……)

「そういうわけで、私は今日のホームルームの時間に、君たちの自己紹介の時間を長く取るように頼まれている。それ以外のことは君たちの方で決まっているらしいが、任せてもいいのか?」
「あ、はい、大丈夫です。先生は、それまで廊下で待機していた俺たちを、HRの最初に、俺も姉さんも『転校生』として呼んでくだされば結構です。自己紹介やその他の説明は、自分たちでやりますから」
「そうか、それなら楽でいいな」
「ええ。俺と姉さんは自己紹介とかの段取りを決めてますので、先生は気楽にしていてください」
「そうか。そういうことなら、私も始業式に参列してこよう。式が終わったら、また迎えに来る」
「わかりました。よろしくお願いします」

 こうして二人は始業式の間中、企画・零治、脚本・祐一の『転校生の自己紹介』について話していた。

「……ねぇ、段取りって決まってるんじゃなかったの?」
「なにぃ!? 姉さんは、この俺の脚本を認めないというのか!?」

 もっとも、その祐一の脚本内容が『ALLアドリブ』という一文だけだったので、それは説明ではなく相談だったのだが。